人工観葉植物職人:清水敦

人工観葉植物職人(CEO)清水 敦

考えながら遊ぶ

高知県の四万十市生まれです。父親は教育者で、兄と姉はともに勉強熱心でした。末っ子だったせいか、両親からの過度な期待はなく、高校卒業までは思いっきり遊びました。

とはいっても田舎であるため周りには自然しかありません。

小学生の頃は、草野球、山登り、川遊び、メンコ、ビー玉、コマに熱中しました。笹舟を作ってレースをしたこともありましたね。そのような環境の中で意識したのは、考えながら遊ぶということでした。

海に行った時にどうやったらアワビやサザエが取れるのか、山芋をどうやったら折れないで掘れるのか。

見本通りに作るパズルゲームが得意なのも、この時に考えながら遊ぶということを意識していたことが影響しているかもしれません。もともと手先は器用で、得意科目は図工でした。

実は人工観葉植物・人工樹木を作る時に、その参考になりそうなことは一切しません。例えば、読書はしないし、旅行をして木を見に行くようなことも一切しません。高知の風景が制作物に反映されているかと言われるとそうではない。

自分では全て自分の空想の中から作り出されていると思っています。しかし、山、川、海が広がる自然の中で育ってきたことで、物を見る目は養われたと思いますし、遊びの中で自然と身についた思考力も、人工観葉植物・人工樹木を作る際の、葉材の組み合わせを考える点で生かされていると思っています。

広い世界を夢見て

高校を卒業した後は、上京して働こうと決めていました。成功するまでは何が起きても高知には戻らない、いわゆる片道切符です。

兄が東京の大学に通っており、自分の上京と同じタイミングで海外に留学することになったため、戻ってくるまでは綾瀬にあった兄の部屋を借りていました。

初めて田舎から出てきて、満員電車や人の多さに圧倒されてしまい、家から遠くないところで働ける職場を探すことに決めました。運良く1社目で出会ったのが、国際郵便で、子会社の 1 つであったグリーン事業部に、初の新卒社員として採用していただけることになりました。

もともと人工観葉植物・人工樹木の業界に入りたいと思っていたわけではなかったので、その後30年間もこの業界で働き続けることになるとは思っていませんでした。

休みがなくても楽しかった

入社した年は昭和 63 年、バブル経済の頂点でした。東京に来るまでは、人工観葉植物・人工樹木を目にしたことがなく、言葉すら聞いたことがありませんでした。自分の背丈くらいの高さの人工観葉植物・人工樹木が 30 万円くらいで飛ぶように売れるのをみて、この業界に対する希望を持ちました。世間は華やかでしたが、入社してから半年間は休みがなく、朝から晩まで働きました。

任された仕事も、最初はセメントを練る、下地になる植木鉢を作るといった地味な仕事ばかりでした。職人の世界ですから、丁寧に教えてもらうということはありませんでした。先輩がやっている仕事を見て覚え、わからないことがあったら聞くというやり方で、徐々に知識を増やしていきました。普通の人なら30個で限界になってしまうところを、同じ納期で 500 個を作らなくてはいけない時があり、その時は最長で朝の 5 時から夜の 1 時まで働きました。そのことを苦だとは思いませんでしたし、圧倒的に成長することができたと思います。現在の会社ではそんな無理な働き方はさせていませんので、ご心配なく。

バブル経済の崩壊とともに新たなスタート

結果的に国際郵便のグリーン事業部には7年間勤務しました。その間に順調に出世して、20 歳の頃から複数の工場の管理、監修を任されるようになっていました。

しかし、バブル経済の崩壊とともに仕事が目減りしていく、また社員数が増加したり、支店を急激に拡大したツケが回ってきたせいで、グリーン事業部は倒産してしまいました。しかしながら本社は存続していたため、本社に来ないかという誘いもありましたが、自分よりも若い後輩に教わることよりも、今までの経験をもとにしてフリーで人工観葉植物・人工樹木を作っていきたいという思いが上回り、会社が倒産する半年前に退職しました。そのせいで、自分のお得意様をほとんど連れて来られずに0からのスタートとなってしまいましたが、それでいいと思っていました。

仕事場は、運良く自宅の近くにあった運送屋の社長に敷金礼金なし、ゴミ代は3年間無料という好条件でお借りすることができました。通常であればさらに保証金や保険も払う必要がありましたので、合計で約 150 万円かかるところが無料になったということで、その社長には今でも頭が上がりません。

そんな中で立てた目標が、年間の売り上げが1億円を超え、家を建てて、車を購入して、必要最低限法人にしてから社員を雇うというものでした。一人だと仕事が間に合わない場合は、その時は既に結婚していたため奥さん、前の職場の先輩、塗装屋の先輩や看板屋の後輩に手伝ってもらっていました。

最初は本業だけでは食べていくことができなかったため、日中は大工の仕事をして、夜はバイク屋でアルバイトをしていました。

結果的には人を雇える余裕が出るまでに 10 年かかってしまいましたが、色々な方に支えられてここまで来ることができたと思っています。

スタッフは家族

全校生徒が 90 人くらいの地域密着の小さな小学校でしたので、学年の垣根を超えてみんなが友達でした。上下関係は一切なく、みんなが無礼講。言ってしまえば、みんなか家族のような存在でした。それが体に染み付いているので、この会社でも上下関係をなくし、言いたいことがあったら言い合う、言葉のキャッチボールを大事にしています。

スタッフに気持ちよく働いてもらうため、仕事が楽しくなるような職場環境づくりには力を入れています。会社をさらに成長させるためには多くの人を採用すればいいというわけではなく、バランスが重要です。

今まで見たことないものを

人工観葉植物・人工樹木の業界ではお客様からの信頼が厚く、おかげさまで弊社から積極的に営業をかけなくても一定の仕事が入ってくるようになりました。設立当初はなかなか仕事の依頼をいただけず、会社と家族を守るために1本 500 円から 1000 円程度の単価の低いお仕事も引き受けていました。

これからもスタンダードな人工観葉植物・人工樹木にも取り組んでいきますが、今後は特に付加価値のあるもの、今までに見たことがないようなものを中心に取り組み、業界をリードしていきたいと思っています。

現在はコストを抑えるために海外から素材を仕入れて、日本国内の工場で組み当てております。グローバル化によって価格競争が進む中、低価格を売りにしていてはどこかで行き詰ってしまいます。

今後は日本の工場で原型を作って海外に輸出する、日本発信の1点もののサンプル屋さんを目指したいです。

もちろんお客様からの要望が第一でそれに少しでも近づける必要があります。しかし、完成予想図の方が良かったねと言われないためには、お客様が想像していた以上の立体物を作り上げる必要があり、大変な点ではありますが、満足して頂けた時にやりがいを感じます。

弊社のスタッフは全員が人工観葉植物・人工樹木に 10 年以上携わっている熟練の職人です。

会社としてだけではなく、スタッフ個人の名前で売れるようになり、納得のいくものが出来上がるなら半年でも待つと言っていただけるようなこだわりのあるお客様とお仕事ができれば最高ですね。人生も折り返し地点を迎え、あと何年この仕事を続けられるかはわかりませんが、お客様に喜んでいただける商品を作り続けていきたいです。

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